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人生朝露

人生朝露

ミヒャエル・エンデと胡蝶の夢。

荘子です。
荘子です。

ミヒャエル・エンデと亀。
ミヒャエル・エンデ(Michael Ende(1929~1995))と荘子の続き。最近知ったんですが、彼は荘子読みとしてかなりオススメです。

参照:「怪」を綴るひとびと。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5107

「怪」を綴るひとびと その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5114

ミヒャエル・エンデと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5115

前も書きましたが、
『M・エンデが読んだ本』(ミヒャエル・エンデ著)。
『M・エンデが読んだ本』の冒頭に『荘子』の「胡蝶の夢」が出てきます。マルティン・ブーバー訳のものでして、「物化」が【変身】となっています。

Zhuangzi
『昔者莊周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自?適志與。不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。』(『荘子』斉物論 第二)
→「おれは荘周。いつだったか夢を見た。蝶になってあちこちあてどなくひらひら飛び回っている。蝶みたいに気ままに飛んでいるのはわかっていたが、自分が人間だとは気づかなかった。と、突然、おれは目覚めた。横になっていたのだ。「おれ自身」に戻ったのだ。だが、わからない。はたして、おれは、自分を蝶だと夢見てる人間だったのか。それとも、自分を人間だと夢見ている蝶だったのか。人間と蝶のあいだには仕切りがある。それを越えることを【変身】という。(『M・エンデの読んだ本』より)」

・・・実は、これまた最近知ったんですが、『エンデと語る(朝日選書)』の中で、子安さんがこの部分について触れています。

≪子安 『私の読本』には、私たち日本人に親しいものがもうひとつ出てきます。それも冒頭に。あの有名な荘子の「胡蝶の夢」です。
エンデ 冒頭に荘子の「胡蝶の夢」最後にボルヘスの夢となっています。
子安  じつは私、独訳された荘子というのは、初めて読みましたが、ちょっと意外に思いました。あの独訳から受ける「胡蝶の夢」の意味合いが、昔、学校時代にならった荘子の印象と、微妙に異なるのです。あわててもう一度てらしあわせてみたり、ドイツ人の東洋学者とも話し合ったりしましたが、独訳のひびきはどうも少し違います。
エンデ 私もうすうすそんな気はしていましたが・・。
子安  いや、じつは私には、そこがまさに興味深かったのですが、原文のニュアンスと一番違うところは・・・。
エンデ 私の見当でいうと、結末のセンテンスでは?
子安  そうです、そのとおり。この“Wandlung(ヴァントルング)”というドイツ語です。この言葉は日本語で言えば「変容」でしょうか。が、私が読んだ日本語の荘子では、ここが「物化」となっています。「物化」と「変容」、どう違うか--(子安美知子 『エンデと語る』より≫

・・・ここで、エンデは初めてドイツ語訳の「胡蝶の夢」の特異性に気づかされます。その後の子安さんの説明が面白いので記録。

≪子安 「物化」と「変容」、どう違うか--ちょっと単語にだけこだわるのをやめて、テキスト全体の流れを見てみましょう。
 荘子は蝶になった夢を見る。目がさめてみると人間だ。すると自分は本当は蝶なのか人間なのかが分からない。蝶が人間になった夢を見ているのか、人間が蝶になった夢なのか・・・ここまでは訳語ひとつひとつをそれ自体として見ると、ドイツ語もきちんと対応しています。けれど、日本語の荘子は、このあとどこまでも、蝶か、人間か?が同一平面上で往復します。永遠にわからないのです、いったい私は蝶なのか、人間なのか。それがドイツ語では、蝶から人間に高まるという、ひとつの発展の意味あいが含まれてきます。「蝶と人間とのあいだには、“Schranke(シュランケ)”がある。その「シュランケ」を超えていくのが「ヴァントルング」と名付けられる--これはひどく積極的な意識だと思います。なぜなら、シュランケは踏切の棒のようなもの、本来ならこの先に行くな、とさえぎられる境界線の敷居です。ここを踏み越えていくという、ドイツ語の動詞“überschreiten”は、ある積極的な意志の行為だし、そのことによる質的な飛躍、つまり、変容が生じる自我の選択なのです。「境界線を越える」というのは、そういう決断をする魂のひびきをかんじさせるでしょう。ヴァントルングというドイツ語のもつ、質的発展性というものを、私はつくづく再認識しました。変容、メタモルフォーゼ、直線的な発展ではないが、螺旋的に、そしてときに外目にはまるで似ても似つかぬ変形をともなって、しかし確実に高まっていく生命的ないとなみ--エンデさんご自身もよくお使いになる言葉です(子安美知子 『エンデと語る』より)≫

参照:EVANGELION unit 00 & 02 vs Angel Zeruel, evangelion ¨(2.22)
http://www.youtube.com/watch?v=RlL6gkfPNEQ&feature=related

心理と物理の“対立する対”。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5094

鏌鋣の剣の偶然、鏌鋣の剣の運命。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5091

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende(1929~1995)。
≪エンデ というわけで、荘子にかんしても、あの独訳とは少しちがうことを彼は言ったのだろうと思います。荘子は、現象の互換性を言ったんじゃありませんか。荘子はタオの立場をとる人ですよね、彼の思想のすべてには、タオがひそんでいる、つまりあらゆる外的現象、個別現象は、最終的に消滅する、と。で、この最後のヴァントルングーー「変容」は、やはり「意識の変容」でしょう。それは、私たちが人間を夢見る蝶なのか、蝶を夢見る人間なのかがわからない、ということを問題にしているのではく、人間が究極的にある境界を超え出たならば、外なる現象間の相違は存在しなくなる、というのではありませんか。つまりタオの見地から見るならば、万物に本質的違いはなくなる、と。
 私が、荘子を冒頭においたのは、この本の最後にふたたび同じ思想が、まったく違う表現で出てくることになるのを念頭においたからです。つまりボルヘスが、シェークスピアについて言った、あの不思議な言葉「彼のなかにはだれもいなかった」です。これを聞いた人は、たいていめんくらいます。ボルヘスがいうには、シェークスピアは、あまりにも多くの人間であったため、読者には彼の自我がどこにあるのか見つけられない。彼は、だれのなかにもいる。オセロのなかにいる、マクベスのなかにもいる。リチャード三世にも、デスデモーナにも、シェークスピアがいる。すべての登場人物内に彼がいて、それでいてだれのなかからも彼個人の声は聞こえない。彼は、その人物たちにしか語らせない。
 シェークスピアその人はどこにいるのか?彼は声なきところにいる。彼がつくった全作品の背後に立つ存在、すべての芝居を構成し秩序づける自我、それがシェークスピアだ。だから、彼は、だれでもあり、だれでもない。(同上)≫

・・・『荘子』とボルヘスの関係を突いてくれるだけでも有り難いですが、ここまで分かってくれていると感心します。

参照:無何有の郷と"Nowhereman”。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5059

インセプションと荘子とボルヘス。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5074

・・・人のかたちというのは、荘子にとって非常に重要なことだけれども、「物化」を「変身」としてしまうと一面だけで終わってしまいますね。少なくとも変身が意図を伴う(有為)ならば、物化とは言いにくい。

Zhuangzi
『一受其成形、不亡以待盡。與物相刃相靡、其行盡如馳、而莫之能止、不亦悲乎!終身役役而不見其成功、苶然疲役而不知其所歸、可不哀邪!人謂之不死、奚益?其形化、其心與之然、可不謂大哀乎?人之生也、固若是芒乎其我獨芒、而人亦有不芒者乎?』(『荘子』斉物論 第二)。
→ひとたび人として形を授かったならば、それを損なうことなく命数が尽きるのを待つのみだ。外物と争い、磨り減らすようでは、その行いはあくせくと駆け足で、立ち止まることすらできなくなる。悲しむべきことだな。死ぬまでせかせかと動き続け、求めていたはずの成功すら目にできず、泥のように疲れていても、帰るべき場所すらない。哀れむべきことだ。他人から「あなたは生きているよ」と言われても、何の価値があろう。人の形が変わり、心もこのありように従う。大哀とも言うべきものだ。人間の生というのもは、もともとここまで暗いものなのだろうか?それとも私だけが暗くて、人の生に暗くないものがあるのだろうか?

参照:「潜水服は蝶の夢を見る」日本版予告編
http://www.youtube.com/watch?v=7olM7fRxEU4&feature=related
↑うるさいので音量を落としてご覧下さい。

Zhuangzi
『「亡、予何惡。浸假而化予之左臂以為雞、予因以求時夜。浸假而化予之右臂以為彈、予因以求鴞炙。浸假而化予之尻以為輪、以神為馬、予因以乘之、豈更駕哉。且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也。此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之。且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉。』(『荘子』大宗師 第六)
→「もし造化がこの左腕が鶏にしてしまうなら、私は天下の夜明けを告げさせよう。この右腕を弾弓にしようものなら、鳥を撃ち落として炙って食べよう。尻を車輪に、心を馬にするならば、君を乗せて旅に出よう。馬車を支度する必要もないさ。時が来たら生まれ、時が来たら死ぬ。この命に順応していれば、哀楽の感情なんてつけ入る隙はない。古人の言った県解の境地だ。自分を解放できないのは、外物の形に囚われているからだ。物が天の理に勝てないのは、今に始まった話ではない。私は造化を憎んだりはしないよ。」

タイコマーシャル 日本語訳 -My favorite Thai TV CM #2
http://www.youtube.com/watch?v=_mbonMFxO9Q
こういうのも「無為にして自然」です。

人のかたち、渾沌のかたち。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5089

今日はこの辺で。


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